人生最大のスランプについて

こんにちはー。

 

 中1で既に決まってた北海道への転校は、西高合格を目標にすることで吹っ切れてた。友達が溢れるほどいた私には凄く寂しいことだったけど、今思い返してみると寂しさを引きずった記憶がないから案外西高まっしぐらだったのかも。こうして中3の6月末に引っ越した。新しい中学校に慣れなくてもすぐに休みがあったら大丈夫だねって言って両親は夏休みの直前に転校を決めてくれた。慣れない学校と受験の大変さに埋れてただけで、また別なものがここから変わっていったんだと思う。受験勉強は当たり前のようにしてたしそれまで通ったことのない塾だって通った。でもだんだん体がいうことをきいてくれなくなった。元々昼寝体質ではあったけど放課後に3時間くらい寝ないと体がもたなかった。この寝てる時間がどうしても無駄なように思えて悔しくて泣いてた。「勉強したいのに眠い」って。ちょっと可愛く聞こえるけどほんとに辛かった。終いには私立高校の受験中にも寝ちゃってた。西高に受かったからどうでもいいけどさー。

 

 結論を言ってしまうと私の高校生活は”あの4人の同期がいるあのテニス部”に入ってなかったら私の人生もっとめちゃくちゃになってたかもしれないって話。勿論、部活以外に親友がいるんだけどそれは後で。テニスも大好きだったけどあの部活が好きだったから余計なことは考えないで学校に通い続けてたんだと思う。思い返すと拒否反応がいくつかあったんだよねー。実は。

 高校1年生の冬にクラスでなんちゃって制服を着ようってなって私も乗り気だったくせに、直前でみんなと一緒になんかをすることに疲労感を覚えちゃって、そんなことをするより浮いて少し恥ずかしい思いをする方がいいって思ちゃった。制服を着る、そんな簡単なことができなくなった。

 高校2年生では辛かった記憶ないな。部活もクラスも絶好調に楽しかったからかな?(笑)

 高校3年生の冬、いきなり学校に行けなくなった。辛すぎて記憶がないけど、多分この日の何日も前からお母さんに学校行きたくないって言ってたと思う。冗談を言うみたいに。理由もないのに休むなんてできないけど学校に行ける精神状態じゃなかった。朝起きて今日も学校に行くんだっていう事実に耐えられなくて。お父さんに「学校行きたくない」って泣きじゃくりながら言った。たまたま家には父親しかいなくて、行きたくないなんて言える相手じゃないと思っていたのに父は「行きたくないなら行かなくて良いよ」ってすぐに返してくれた。こんなに優しい返事をくれる人だったっけっていう驚きと行かなくていいという安堵で号泣しながら部屋に戻った。そこから記憶が飛んでるから覚えてないけど、たしかまた別の日に私が学校を休んで、姉と2人でお昼ご飯食べてるときに「学校に行きたいのに行けない、行く元気はないのに食欲はあるのが悔しい」って泣いてたらしい。結局何事もなかったようにその後学校に行くようになったけど冬季講習でまたダメな自分になった。私は母親に隠し事ができないからズル休みなんて一回もしたことなかったけど冬季講習のときに行くフリしてスタバで何時間も過ごしたことがある。スタバに感謝してる。居場所をくれてありがとうって。そんなことは置いておいて、私が学校に行けない原因には誰にもない。むしろそこが辛かった。誰も責められない、要は自分が悪いとしか言いようがないその状況がさらに苦しむ原因になってしまった。

 

  辛いながらも初めてのセンター試験を終えて、西高生とか国公立受ける人たちにとっては低い点数だったけど私にとってはいつもの感じの点数だった。親に自己採点の結果を報告してどう?と聞いたけどあんまり反応が良くなかった。

 

 私の原動力は母親に褒めてもらうことだった。勉強でも運動でも自分の成長が自分にとっての原動力ではなくて、いい成績をとって母に褒めてもらい自慢の娘だと思ってもらうことが私の人生の全てだったみたいだ。母親は音大出身でピアノの先生だったから私も習ったけど実際は音楽もピアノも嫌いだった。辞めると言い出せないのは母親に嫌われて見離されるのが怖かったから。母親は姉2人のことだって見離したことはないのに、私はなぜか母親に見離されるのを恐れて何かある度に「見離さないでね」と口癖のように言ってた。それは今でもよく覚えてる。

 

 この母親の微妙な反応が怖かった。あー、もう私は良い子(成績の良い子)じゃないんだ。見離されるんだ。って怖くて何度も「意外といい点数じゃない?」て話しかけ続けた。それでもいい反応は返ってこなくて。なんでそんな反応なの?私のこと見離さないでね?って泣きながら母親に聞いてたらいつのまにか過呼吸になってた。人生初めての過呼吸は心も体もズタボロだった。二次試験は当たり前のように落ちて浪人が決まった。

 

 宅浪メインだけど少しだけ塾にも通ったりした1浪目。やっぱり冬がダメだった。勉強しかしていないのに異常な眠気と憂鬱な気分が私を苦しめた。それから長年応援してきたアイドルの自殺。割愛するけどこの年もよいとは言えない状態で受験。1日目でわかった。受験に失敗したことが。親にお金をかけさせてまで浪人したのにまた受験に失敗。褒められる要素なんてこれっぽっちも残ってない私には生きてる意味がなかった。だからセンター1日目も2日目も帰り道は「いつ死のう」ってことしか考えてなかった。地下鉄に乗る時も「今飛び出せば」って思ってたし暗くなった歩道でも「いま車道に突っ込めば」って。結局死ぬ勇気なんてなくて、母親に「帰ってきてごめん。死にたかったけど死ねなかった」「こんな子でごめん」て謝った。一番言っちゃいけないのに終いには「私のこと生まないほうがよかったね」って言ってしまった。馬鹿だなー。ほんとに。母親は「何言ってんの」って笑い飛ばして私を当たり前のように受け入れてくれた。徐々に笑って話せるようになった時でも高3のときと同じこと言ってた。「こんなに辛くて死にたいと思ったのにお腹は空いちゃう」って。泣きながら母のご飯を頬張ってたわ。

 

 

それで、両親とちゃんと話した。私の家は余程のことがない限り病院には行かないからちゃんとした診断は受けてないけど、冬季性のうつ病だねって。ぐったりとして疲れやすい・今まで楽しめたことが楽しめなくなる・気分が落ち込む・普段より睡眠時間が長くなる・食欲が減退したり逆に亢進する。今思えば北海道に来てからの冬、このサイン出てたんだなって。だから2浪目は北海道を出ることにした。父親も浪人時代は仙台で過ごしてたし、冬でも天気はいいし。いい下宿先も見つかったから。

 

 これが人生最大のスランプ。というか人生のどん底。最後らへん泣きながら書きました。辛すぎて。自分の状態を理解できたっていう面では鬱病ってわかってよかったけど、またそうなるんじゃないかって冬に対して恐怖の感情も同時に芽生えちゃった。また冬になったらよくない感情になるんじゃないかって。今年の冬はもう乗り越えたけど、正直自粛期間も怖かった。家から出られなくて閉じこもった環境で不安な感情が鬱に繋がるんじゃないかって。考え始めたときに東京での地震も増えて「このままじゃいけないな」って思ったから帰省した。自分のことを理解して対処できるようになっただけでも進歩。取り敢えず。